岐阜時計/10インチ八角合長掛け時計
 
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概略寸法 高54cm×幅35.5cm×厚み11cm
文字板 10インチ/オリジナルペイント文字板
仕 様 8日巻/渦ボン打ち
時 代 明治30年代前半
 
数ある国産古時計の中でもとりわけ希少性高いと言われる岐阜時計から、10インチ八角合長掛け時計の紹介です。

岐阜時計は明治30年8月、岐阜市において大洞弥兵衛により設立された一貫生産時計工場です。創業わずか数年で姿を消したとされ、確認された現存数がきわめて少なくほとんど資料も残ってないことから「幻の時計」などと言われています。この種の希少時計は地方の時計製造所や大都市圏でも家内工業的に少数製造された時計が知られ、東北、北陸、関西等各地に似たような例があるようです。同じ希少時計でも黎明期に名を馳せた蛎殻町時計や、後に世界企業となる石原町時計(現SEIKO-HD)と違い、けっきょくは知名度の差かな?ってところでしょうか?

そんな岐阜時計ですが、実際生産実態は識者をもってしても多くが謎らしく、種類も生産数もまったく分からないようです。そりゃ筆者ごときは一生お呼びでない・・・・^^;^^;
・・・・っと、思ってたら、何の因果か清き正しき日頃の行いか?! 棚ぼたでやってきたのがこの時計。これまで公になった岐阜時計6台(または4台)すべては四ツ丸タイプとのこと。7台目(または5台目)にして、おそらく八角合長としては初出かと思われます。

なにぶん上述のように比べる時計の無い状況であり、加えて資料不足とあっては文字板周りや針、振り子など、後年の交換が多い部品のオリジナル性は確認出来ません。したがってそれらについては参考とお考え下さい。
 
 
入手時外観
入手時外観

外観上のくすみやヤニ汚れは経年並として、全体に目立つ傷みもなく筐体そのものは概ね良好です。
目立つ部分では文字板ガラスの紛失と枠外れ、半田剥がれによる文字板の落下等。細部では振り子室扉ツマミ紛失、八角枠の金彩は痕跡のみ。振り子室扉や金彩ガラスはオリジナルと思われます。背板に書き込み等はありません。
内部は経年の埃まみれですが、振り子室ラベルの印刷面は良い状態です。巻き鍵が振り子室に転がり、はて?付属してたはずの振り子は・・・・どこ?
 
掛け金等
掛け金等

掛け金は2本留めのわずかに肩の残った頭丸後方形。
八角部背面のガラス枠フックの留め板は紛失です。
 
埃まみれの内部
埃まみれの内部

文字板を外すと、案の定見えなかった振り子は機械に挟まって出てきました。仮にも時計専門業者でこの梱包? 巻き鍵も転がってたし素人じゃない分恣意的としか思えない! ガラガラ揺すられたのか振り子竿はネジ部分が破断。右写真の左上に見える細棒が破断したそのネジ部分です。
機械側も含め筐体内全体は酷く埃まみれ。相当な年月眠ってたみたい・・・・^^;^^;
 
入手時機械
入手時機械

少ないながらもWeb上に2〜3例あるのと同じ無名オリジナル機械と思われます。
写真の通り埃まみれで、吹けば舞い上がるという状態。それでも振り竿振れば粘りがちに緩慢な動きながら雁木車は回り、ボンも普通に鳴りました。それじゃーと筐体から取り出しざっと見回すと、雁木車の軸受けが表裏ともちょっと楕円に広がり気味かなって感じ。とは言え致命的な問題はなさそうでまずまずの状態です。

この軸受けはアンクルとの当たり(カチカチ音の正体)による衝撃や、動きももっとも激しいことからよく摩耗し広がってしまいます。その調整もあってか支える舌状金具には挟んで調整した跡がいっぱい。時計動作という意味では安定した拍動するためのまさに心臓部ですので、ほとんどの古時計には大なり小なり調整跡が見られこの機械は細いこともあってかけっこう目立つ方。
 
渦ボン
渦ボン

ボン台も外してきれいにします。刻印は「GIFUCLOCK .&Co.」。振り子室ラベルとボン台裏に残った切れ端も一致し、共にオリジナルに間違いないでしょう。
渦ボンはやや長めの五重巻きで、ビーンという不協和音的な音は精工舎初期のボン音に似ています。
 
振り子室周り
振り子室周り

入手時よりぐらついていた振り子室扉は、数回開け閉めしているうち2カ所で組木の破損していることが判明。オリジナルと思われる金彩ガラスは一旦外しておきます。

扉内側の蝶番側には和紙に墨字で昭和の日付と「シンシユヤ(信州屋?)」。所有者名か時計店名か? 日付からすれば昭和30年代頃までは使用されていたのでしょう。
 
振り子室ラベル
振り子室ラベル

若き(20代半ば頃)川合玉堂作と言われる鵜が魚をくわえた有名な?振り子室ラベルです。
多くの振り子室ラベルが社名やロゴ記号の表示である中、絵入りは珍しいというほどじゃないけど多くはありません。

玉堂は明治中期より昭和30年代までの長きに亘り、横山大観、川端龍子らと並び称される日本画の巨匠です。岐阜時計創業の大洞家と玉堂は親戚関係だったらしく、玉堂の奥さんも創業者弥兵衛の次女とのこと。そんな関係なら「我社を象徴する岐阜らしい絵を所望したい」、なんて言われたとしても不思議じゃない。
 
振り子と部品類
振り子と部品類

振り子は小さく直径約55mm、実測78gと軽め。調整ナットは紛失。オリジナルかどうか比べる時計も資料もなく分かりませんが、古い物には間違いなさそう。
巻き鍵もやはり資料が無くオリジナルかどうか不明。パッと見はごく普通。

下は筐体から回収した、あるいは外した部品類です。
針はごく普通だけど、若干ボリュームあるかな?って感じ。長針は角穴に対し遅れ側に1〜2分曲げられています。
筐体内からは竹に刺さった振り子室扉のフック、文字板から外した2個の他になぜか3個目のハトメ、他に半田外れのガラス押さえや、写真にはありませんが機械から外れた真鍮ナット1個など出てきました。
 
入手時文字板
入手時文字板

後貼りされた紙文字板は枠から半田が外れ、ベース板も反り癖が付いていました。裏面に書き込みはなく、外周部や中心付近にもオリジナルと思われるペイント残りがいっぱい。

ベース板で特徴的なのは12時位置と6時位置にそれぞれ5〜6mmの切り込みがあります。垂直や印刷合わせの目安としていたのでしょうか?
 
後貼り文字板剥がし
後貼り文字板剥がし

周囲の一部剥がれていた部分をめくって見ると、けっこうオリジナルらしきペイントが残ってる!
だったらダメ元で剥いでみようと、70〜80℃程度の熱湯風呂に入ってもらいました。すぐに細かく泡立ちながら接着剤(たぶん当時はでんぷん糊)が溶け出しはじめ、お湯は見る見る茶に変色してきます。それを繰り返すこと2回、十分紙文字板が膨潤し浮き気味になったところで慎重に剥がせばご覧の通り。

当時、大正期頃になると「1 2 3」のアラビア数字(算用数字)による文字板がもてはやされ、ローマ数字は時代遅れになりつつありました。いわゆる大正浪漫、大正モダンって奴でしょうか? その結果、この頃から多くの時計もアラビア数字の文字板へと替わり、以降ローマ数字が復活することは近年のアンティーク調に作られた時計以外ほとんどありません。その事実は明治期の時計か大正以降の時計か、もっとも分かりやすい時代考証の助けとなっています。
それでは時代遅れとなったローマ数字の文字板をどうしたかというと、アラビア数字の紙文字板に普通に貼り替えが行われていたようです。実際筆者の持つ明治期の時計でも、ジャンク入手と言うこともあるでしょうが7〜8割は貼り替えられています。明治期の時計の多くは元々剥がれやすいペイント文字板でしたので、多少の傷みでもあれば躊躇なく貼り替えられ今に至ってるんですね。時代考証の助けと言いましたが、あくまでオリジナルでなければその判断は出来ません。

さて、それはそれで時代の流行で仕方ないとしてこの時計、後貼りで同じローマ数字の紙文字板をどうして貼っちゃったの? アラビア数字が流行る前、明治期のうちに貼り替えられたってこと? 写真のように両者の接着面を並べるとぴったり対称で、剥がれたペイントはそのまま紙文字板側に移ってる。つまり、貼る前からペイント文字板の剥がれはほとんどなかったと思われ・・・・いったい何を思ってわざわざ貼り替えたのやら??
 
ペイント文字板状態
ペイント文字板状態

よ〜く乾かした後、細かく崩れ散らばりどうにもならないペイントカスを絵筆で慎重に掃き出します。部分的にはけっこうポロポロで、ベース板の反りなんて直そうものなら・・・・^^;^^;
右写真でペイント全体が細かくヒビ割れてることが分かるでしょう。
 
文字板コート
文字板コート

ってことで透明ラッカースプレーを慎重に2回ほど吹いてコート。最後に透明つや消しスプレーを薄く吹いて不自然な反射を抑えます。
薄茶の筋汚れや文字の白濁は後貼り紙文字板の糊残りのようですが、何しろポロポロで触らぬ神に祟りなし! これ以上の糊落としは剥がれを招くばかり。ダメ元作業でオリジナル復活とすればまずは十分でしょう。
尚、特にロゴや社名の書き込みはありません。
 
文字板周り補修
文字板周り補修

上がった文字板を枠に半田付けして取り付けます。
文字板枠は薄い真鍮のプレス物でペラペラ&ヨレヨレ! 水洗いしてマジックで12時位置にマーキングし半田付けします。文字板枠にも筐体側にも後空けと思われるネジ穴があり、元々は十字に4本か三角形の3本留めかと思われます。

この種の半田付けでは80〜100Wの大形半田ゴテで一気に熱をかけ、短時間のうちに済ませます。30〜40W程度の半田ゴテでは熱が逃げてしまい、長時間コテを当て続けないとワーク(対象物)の温度が上がらず半田が流れてくれません。よく外周部の数カ所が半円状に剥がれたり変色した文字板や、真鍮のガラス枠でも同じく数カ所茶に変色したものを見かけますが、それらは長時間熱をかけすぎた跡に他なりません。この時計でも文字板周囲のオリジナルペイント剥がれは、半田付け位置とよく一致しています。

前述のように裏面に残るペイントには左下写真のような指紋がいっぱい。ベース板を手に持って下地塗りした、あるいは下地塗りした板をウェイターのように持って乾燥させるために並べた?・・・・かな?
 
機械調整
機械調整

取り外した機械を洗浄してからあらためてよくよく見直します。
その結果軸受け(ホゾ)のガタ以上に雁木車とアンクルとの嵌合が問題。確かに動くことは動くけど嵌合が浅すぎ一周する間に飛び気味となったり、逆に歯同士が当たってしまうこともありました。ルーペで見る歯先はさすがに若干の摩耗やダレもありますが、今のところ問題となるレベルではなさそう。

っということで、舌状金具にわずかな曲げを入れて嵌合調整を行います。この調整は時計のキモであり金具に過去の調整跡がいっぱいなのは前述の通り。下写真のようにアンクル支点の金具にも叩いた、あるいは挟んだ際の滑り傷が残っていて、何度も嵌合調整が行われて来た様子がうかがえます。実際このへんは実に微妙な調整で、前後の写真を撮っても違いが分からない・・・・固定カメラならよかったけど・・・・^^;^^; ただ振り竿振ってみるとその違いは明らかで、確実に嵌合し安定して振れるようになりました。最後に注油してOK!
 
メンテ完了機械
メンテ完了機械

上述の舌状金具とアンクル支点の調整跡はありますが、他に目立つ修正跡はなく時代からすれば良好な方でしょう。雁木車には「6」の刻印入り。ゼンマイ部分には他のWeb上にある機械にはないブリキのカバーが付いていて、ゼンマイ交換時の後付けか岐阜時計としては後期の機械かも知れません。ラチェット爪(コハゼ)は魚の尾形、スリーブの付いたゼンマイ軸というのも筆者はこの機械しか見たことないかも? 地板左下には「2」とケガキされています。ゼンマイ交換された際の記録でしょうか?
 
機械裏面
機械裏面

こちらも修正跡などなく多少の当たりキズがある程度ときれいな裏面です。筐体内から出てきたナット1個は機械中央支柱の留めナットが緩んだものでした。
 
筐体メンテ
筐体メンテ

筐体表面は水拭きした後ワックス掛けしてメンテしました。
ご覧のようにあっという間にタオルは真っ黒、洗面器は濃い紅茶色。八角上部を中心にかなりのスス汚れで、こびりついた汚れは簡単には落ちません。無理に落とそうとすると塗装まで傷めることがあり、水拭きが過ぎてくすんで剥がれたり白っぽくなった塗装をよく見かけます。ってことでその辺はほどほどに。最後に乾拭きして仕上げに家具用ワックスを塗り込んで終了。
 
留め板製作
留め板製作

文字板ガラス枠の紛失していた留め板を自作して取り付けます。
切り取った板をヤスリで仕上げオイルステンを塗り、元の釘穴に木ねじで取り付ければOK!
 
振り子室周り補修
振り子室周り補修

筐体と同じくスス汚れの目立った振り子室ガラスの表面を洗浄し、破損していた枠と合わせタイトボンドで接着補修します。
振り子室扉のツマミは残っていたフックを利用し、当方手持ちの補修部品を使用して取り付けました。
 
振り子補修
振り子補修

破断していた部分を半田が載りやすいように磨いて錆など取り、補強の添え木としてリン青銅の板バネ材をパイプ状に丸めて差し込みます。しっかり熱をかけ半田を流し多めにボテッと盛っておき、仕上げにグラインダーやヤスリで余分な部分をきれいに仕上げればバッチリ! 紛失していた調整ナットは手持ちのナットを使用しました。
 
再組立
再組立

筐体と機械はもちろん留めネジ1:1嵌合。壁掛けしてアンクル竿を慎重に曲げ調整し垂直を合わせます。振幅は錘位置で3cm程度とちょうどいいくらいでしょう。一旦降ろしてガラス枠と文字板、最後に針を取り付けレストア完了(^^)(^^)

紛失部品を当方で作り直すなどしたガラス枠の留め板、振り子室扉ツマミ等除きオリジナル性は高いと思われます。今回入れてない文字板ガラスは後で同時代の名古屋物古時計から拝借することにしましょう。
 
ちなみに他社の時計にはない(あまり見ない)岐阜時計の特徴や、この時計で明らかになった仕様などいくつか上げておきます。
  1.これまで発見されていた本四ツ・張り四ツ時計に加え一般的な八角も作っていた(おそらく頭丸も)
  2.文字板ベースの12時、6時位置の切り込みと下塗り方法
  3.機械の雁木車にある数字刻印
  4.スリーブ付きの機械ゼンマイ軸
  5.ブリキカバー付きのゼンマイ(後付けかも?)
  6.やや小さめの振り子(オリジナルかどうか不明)

再三述べました通り比べる時計が無いという状況において、一応岐阜時計の10インチ八角合長掛け時計としてレファレンスにはなると思います。
 
当時の中京地区は国内一の時計産業集積地でした。明治中期、相次いで創業した林、高野、名古屋、尾張、明治、愛知等々、現在でも良く知られた古時計会社が群雄割拠。更に中小や組立会社まで入れたら、まだまだ初期と言っていいこの時代でさえ20社は下らなかったと思われます。そんな中、新規参入した岐阜時計でしたが、経営的、営業的にどうであったかは数年で消えたことを考えれば、まあご想像の通りでしょうね。
振り子室ラベル詳細
とは言え、時代的に時計製造のノウハウはそろそろ完成していたと思われ、わずか数年の稼働とはいえ一貫生産工場であれば年産数千台の能力はあったでしょう。実際本機を見ても文字板枠がちょっとヤワかなと思う程度で(同時代の各社似たようなものですが)、機械を始めとする他の部品類や全体の作りはそれなりに良くできていると思います。
にもかかわらず、現時点でわずか10台足らずという確認数はまったく不思議です。知名度の差かなとは思いつつ、他に類例ないくらい羽1本1本まで緻密に描かれた振り子室ラベルを見るにつけ、もっと昔から興味を待たれても良さそうなものなのにと思いますが・・・・
 
最終更新 2013年10月30日
新規追加 2013年 6月10日
 
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