初物・初期物について |
一般に会社設立当初の初事業、初または新商品の初期製造現場において、始めからすべての部材が都合良く量産仕様で揃ってる訳ではありません。また量産中の製造現場においても、修正や金型更新による部品類の自然切り替えは現在でもごく普通にあります。 それが近代製造業の黎明期とあっては、現代ほど厳格な設計標準やコンセプトが定まっていたとは考えづらくかなりアバウトであったと思われます。工場が変わろうが社名(資本)が変わろうが余った部品すべてを廃棄したとは考えづらく、当たり前のように転売や二次利用等後の製品に引き継がれたことでしょう。 時計の場合であれば機械部品はもちろん、刻印も針も文字板も振り子室ラベルもボン台も、そして筐体さえ、試作品の本番利用、旧部品の量産使用が当然あったものと考えられます。したがって最初期に近い物ほど後年付けられる様々な刻印(ロゴや管理印、社名等)や飾りなど付かない、シンプルな基本形となるのが普通です。そりゃいきなり凝った機械、凝ったデザインで量産品は出来ません。 製品仕様とは時代を追うに連れ加工機械の更新、それに伴う金型更新等による合理化、派生機種への展開、共用等の他、徐々に不足や間違いに気づいて修正され、改善され、あるいは追加されていくものなのです。 |
精工舎とその機械について一例をご紹介します。 はじめに精工舎(服部時計店の時計製造部門)創業期データとして 石原町工場 : 明治25年5月/最初の時計完成同年7月 柳島町工場へ移転 : 明治26年12月 最初の商標登録 : 明治31年 |
石原町時代の機械 (8インチ用) |
*参考* 左)少し古いINGRAHAM機械 右)石原町と同時代頃のINGRAHAM機械 (共に10インチ用) |
石原町機械は角張った地板で、角穴部分を除き単純なシャーリング加工(シャーカット/直線切り)で外形を仕上げていることが分かります。まずシャーリングで長方形の外形を切り取り、その後上部左右の角穴と下部の門構えをプレスで切り抜く訳です。他に無駄な穴がいっさい無く、まさにベースとなった最初期の地板であることを伺わせます。付属部材として雁木車の舌状金具(支え金具)等ありますが、プレス抜きながらリベット留め後端部形状が角張っている特徴があります(矢印 1)。 シャーリングはいわゆる紙の押し切りと同じで、せん断加工と呼ばれる片側が固定された鋏のような切り方です。板金加工ではもっとも単純なカット方法であり、主に大きな板から決まった寸法に切り出す材料取りとして使用される加工法です。 尚、この石原町機械は同時代の米 INGRAHAM (イングラハム)の四つ丸(だるま)時計機械と酷似しており、おそらくお手本にしたと思われます。石原町8インチ、INGRAHAM10インチのため雁木車周り等細部の違いはありますが、INGRAHAM新・旧機械をたして2で割ると石原町機械となる良く似た特徴を併せ持った機械です。 |
左)柳島町最初期の8インチ八角合長時計機械 右)柳島町わずか後の8インチ張り四つ丸時計機械 |
柳島町機械も最初期では石原町と同じ機械のようです。上の石原町機械と比べても明らかな違いを見いだせません。 ところがわずかに時が経過すると、同じ角切り地板ながら右のような機械も現れます。 舌状金具はこの機械でリベット留め後端部形状がすでに半円形となり、それは以降の機械にも共通した特徴となっています(矢印 2)。また一つの地板で各種時計に共用できるよう、別仕様と思われる穴がたくさん開けられています。 詳しい寸法は測っていませんが若干左右の縦板幅も大きくなってるようで、この機械では外形寸法がわずかに横へ広がっているようです。追加された丸穴ばかりでなく、すでに設計上の裁断寸法や金型の更新が行われているのでしょう。右写真の機械は柳島町初期の8インチ張り四ツ丸時計に使用されていました。 尚、上述の通り共に8インチ時計の機械ですが、振り竿の支点位置が異なっています。これは一般に四つ丸時計では基本的な八角合長時計より振り子支点から錘までの距離が数cm長く、10インチ八角合長時計と同じように振り竿支点を上に延ばし距離が長くなるよう仕様変更しているものと思われます。 |
左)柳島町時代の機械 右)大正〜昭和期頃の機械。 |
こちらはもう少し時代の下った柳島町機械(左)と、更に時代を経たもっとも普通に見られる精工舎機械です。 柳島町機械も移転から数年経過すると地板の角が丸まり(矢印 3)、シャーリングから生産性の高いプレス金型への移行が外形部分も含め順調に行われてきたことが分かります。シャーリングと比較しプレスでは桁違いの動力を必要としますが、順調な売れ行きに工場設備が整えられ、より生産性高くコストダウンにも繋がるプレス金型へと増強されたのでしょう。また前3例の舌状金具と違い、調整のしやすさを考慮してか形状全体にテーパーが付くようになりました(矢印 4)。このテーパーは先のリベット留め端部角から円への変更と共に、以降も続く特徴の一つです。 しかしこの時代まではまだ部品配置に大きな変更なく、ロゴの付かない無名機械がほとんどです。 |
創業数年で早くも国内屈指の時計メーカーとなった精工舎は、明治30年前後から大量生産態勢となってきます。機械はまず目立つ変更として初期機械で左側ゼンマイ上にあったボン打ちの数取車がゼンマイ軸と同軸に重なって付くようになります。左写真でゼンマイ軸に一番車1枚だった歯車が右の機械では数取車と2枚同軸に重なっており、逆にゼンマイ上の歯車は左の2枚から右の二番車1枚のみに変わっています。 更に機械打ちのロゴも左下に付くようになり、やがてアンクル押さえ(右写真で錆の見える黒い部品)も棒材からプレス品に変わっていきます(矢印 5)。取付足もしばらくは上下2本の4本留めですが、やがてこの写真のように下足が4本留めの計6本留めへと改良されて行きます(矢印 6)。 また、この時代になると地板の無駄穴が逆に無くなっているようにも見えます。時計そして機械そのものの製造数が飛躍的に延び、地板など部品類を使い回すことなく各機種専用の部品を使うようになったとも考えられます。 前四者の機械は創業約5年となる明治30年前後までで、一般に目にする機械はほとんど5番目と類似する機械が多いと思います。 |
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さて、精工舎初期で希にみられる手打ちされた鍵Sロゴ付き機械や手押しされた文字板の判子ロゴですが、特に前者では後年の分解修理や整備の際すでに成功を収めたメーカーの優位性を、あるいは信頼性を示す差別化のため後打ちされたものかも知れません。 なぜなら、始めから生産工程内で打たれたとしたらやめた理由が見つからず、途中から統一的に打たれだしたとしたらあまりに数が少なすぎるからです。柳島町時代になっても石原町から続く上写真初期4例までの機械は無名機械であり、全体数からすればごく少数だけ例外的に手打ちロゴ付き機械が存在します。文字板の判子ロゴについては数も多く、ロゴなしで多数作ってしまった在庫文字板に生産工程内で後押ししたものと考えていいでしょう。しかし、機械の手打ちロゴに関しては少数または特定の時計商(代理店とか)による修理調整時の後打ち、または何らかの理由によりごく短期間工程内で手打ちされたものと考えるのがもっとも的を射てるように思われるのです。 この手打ちされたロゴは特にその向きが左右に傾いているなど一定しておらず、その意味でも時計商による後打ちと考える方が説得力を持ちそうです。短期間であっても生産工程内で打ったなら、さすがに傾けて打つようなミスは考えづらいですからね。それは文字板の手押し判子ロゴに傾きが見られないことからも言えそうですが、手作業は手作業でも治具押しだったのかも知れません。 石原町時代とされる時計にその種の手打ちされた鍵Sロゴ付き機械は存在しますが、上述の一般的製造過程、更新過程から考えるとその存在自身があまりに不自然です。やはり始まりは無名機械である方が遙かに自然でしょうし、そのような最初期の製造工程で手打ちロゴの存在理由は疑わしいように思われます。事実として石原町時代にはまだロゴ自身商標登録されておらず、かの振り子室ラベルにもロゴはありません。その後ある程度知名度を得てきた段階で分かりやすいロゴをどこかに残し知らしめたい、と思うのは先の差別化のためにも自然な発想なのではないでしょうか。物作りの工程上からも後打ちされたもの、または上述のように(否定してはいますが)ごく短期間の手打ちと説明するのがもっともつじつまが合い自然なように思われるのです。 更にポイントをもう一つ。ロゴの入らない石原町ラベルの時計にのみ、手打ちロゴ付き機械が存在するように思われることです。つまり柳島町名の振り子室ラベルには後述のようにそのすべてにロゴが印刷されており、それによって精工舎製であることは示せる訳でわざわざ機械に後打ちする必要はなかったように考えられます。 ではなぜ通常ユーザーが見ることのない機械への刻印としたのでしょうか? 一つには下写真を見てもお分かりのように、石原町ラベルにはロゴ印刷した後貼りシールを貼るようなスペースがありませんでした。左右のSやAの下なら貼れますが、やはりバランス悪く取って付けたようでカッコ悪い。そもそもまだ名の知れ渡ってないこの時点で、あえてユーザーに知らせる必要はなかったと考えたかも知れません。むしろ機械製造元の証がほしかったのは当時の保険保証絡みの時計商側の理由であったり、メンテ済みであることを示したい動機かも知れず、製造元としての精工舎本体の意志や指示がその時点で果たしてあったのかも疑問となるところでしょう。 実際、柳島町機械でも当初はすべて無印で有り、お馴染み「鍵S」の刻印がされるようになったのは上述の数取車位置がゼンマイ軸と同軸になって以降(およそ明治30年以降)になってからと思われ、それは商標登録された時期と一致しています。 このあたり、今となってはそれらすべて藪の中で、ちょっと苦しい考察ではあるかな?・・・・^^;^^; |
石原町振り子室ラベル |
実は精工舎に限らず商標登録前でもロゴが使用されることは多々あります。精工舎最初の商標登録は明治30年代に入ってからですが、26年12月操業の柳島町名振り子室ラベルには筆者が知る限り、そのすべてに鍵Sや扇Sロゴがすでに記入されています。当時、英語やローマ字の読める人は少なかったでしょうし、ある程度名が知られてきた後のロゴの存在はメーカーとしても時計商としても大きな意味があったことでしょう。 下の画像は柳島町初期の振り子室ラベルです。化粧枠の違いとロゴが追加されてること以外書体を含め石原町とよく似ています。ベースとなった原版は同じものかも知れませんね。 また、石原町ラベルでは「 MANUFACTURED 」の前から5番目「 F 」の字が「 E 」と誤記されていますが(矢印 7)、柳島町では「 F 」に正しく直っています(矢印 8)。こうして後年物はちゃんと間違い修正が行われて行く実例ともなっています。 |
柳島町初期の振り子室ラベル |
逆説的に言えば手打ちロゴ機械が少ないことを理由に初期物と考えるには資料不足であるとも言えそうです。したがって現時点で真に石原町時計と断言できるのは無名機械の他、雁木車舌状金具(支え金具)形状、ローマ字の長音記号無し振り子室ラベル、無名ボン台、掛け金部切り欠き形状、文字板の特徴等のすべてを、または複数の特徴を併せ持つものと総合的に判断すべきでしょう。 |
長音記号無し石原町振り子室ラベル |
さて、石原町工場の規模からして、現在でも100台を遙かに超える残存数はあまりに数が大きすぎます。一般に石原町時計としてパッと見の判断基準とされる振り子室ラベルですが、柳島町の初期にも当然引き継がれ使い回されたラベルが相当量あったことでしょう。ロゴ入りの柳島町ラベルが出来るまでのつなぎとしても、余っていた石原町ラベルは大いに役だったのかも知れません。したがって振り子室ラベルを根拠に石原町製とする時計の多くは、実際のところ柳島町工場に移ってからではないでしょうか? っとまあ、これらは自然切り替えや後打ちがあったとしての話し。 っで、我ながらそれなりの説得力はありそうだと思うけど、あくまで筆者の考察(って言うか想像?)だ、とは注記しておきますのであしからず・・・・^^;^^; |
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時計に限らずある同型商品でもし名無しの物と名入りの物が混在していたなら、名無しの物、あるいは間違った表記や状態の残る物の方が初期製造品だと思ってまず間違いありません。名(ロゴ)を入れなくちゃ、正しく直さなくちゃ、管理刻印付けなくちゃなどという修正・追加は様々にあっても、後から名や刻印を消したいという修正は特殊な場合(輸出、OEM製造、社名または資本変更等)を除き考えられないからです。 但し、古時計の世界では組立時計という製造会社が存在しています。それらの会社は一般に機械周りの製造設備は持たず、自社製筐体またはそれも含めたすべてを他社から買い入れ組み立て販売するという形態です。この組立会社の中には無名機械や黒一色の振り子室ラベルが存在し、他に文字板のロゴ、振り子室ラベルやガラスの金彩印刷に製造元表記のない時計、更には架空とおぼしき社名や舶来を臭わせる名を付けた時計まであります。 よく文字板下の欄外にある「MADE IN ****」「**** MADE」などという表記もその多くは機械の製造国(生産地)を示しており、セットメーカーの所在や筐体製造及び組み立てがどこで行われたかを示すものではありません。更に蓄音機同様現在出回っている古時計(特に置き時計)の中には近年のリプロやまったくの虚偽記載、2個一3個一は当たり前、一見精密に見える枕時計など高く売れるが故その傾向は高いと言えそうです。逆に、本来どう安くても数万円以上する時計が1万円以下で売られていたら、まずは怪しいと思って間違いないでしょう。はっきり言って売る方だってとぼけたふりをしててもプロです。仕入額を割ることなんてあり得ないしそんなお人好しじゃない。まあ、オークションのように終値が決まってない場合とか、どこにでも例外的事例はあるでしょうが・・・・ 話しは戻って組立時計。 有名なところとして古くは機械性能に優れた米ANSONIAや独JUNGHANSの機械を国産筐体に入れた組立時計が、後年国産機械も優れた機械が多くなるとそれらと自社筐体など組み合わせた時計が多くなります。 尚、ハートH時計のように、元々黒一色の振り子室ラベルがオリジナルというメーカーもありますから、筆者もそうでしたが見極めは時に困難な場合もありなかなか一筋縄ではいきません。 |
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自然切り替えとは 不具合部品の交換とは異なり緊急性を要さず、機能的な問題はないが金型を更新したから、ちょっとした意匠変更や合理化、更に多少の設計変更等あり、現行部品から新部品へ切り替えていこうという生産手法です。当然、機能的な問題がない以上現行部品はそのまま使い切り、無くなって後、新部品に切り替えていくということで自然切り替えと言われます。 現代の製造現場ではいつ切り替えになったか記録に残したり、切り替えを示す刻印をどこかに付けたりするのが普通ですが(万が一切り替えた部品に問題があった場合生産管理上困るため)、通常それは販売店を含む購入者側に一々告知されることはありません。あくまで製造メーカー内で処理が完結する管理手法の一つです。機械の地板等でよく見る1桁〜数桁の意味不明なアルファベットや数字の刻印はこのようにして打たれ、または更新されていくのです。 但し、必ずしも「 A B C 」や「 1 2 3 」の順番通り打たれるとは限らないところが時代考証上やっかいなところ。上述のように刻印の意味は作り手側で理解していればいいことで、あえて購入者側まで知る必要のない情報でもあります。むしろ内容的にはあまり知られたくない自然切り替えが含まれているかも知れないのです。結果それは何らかの頭文字だったり、順番は順番でもアルファベットや数字の途中から始まっていたりけっこうアバウトです。中には几帳面なメーカーもあったでしょうが、一般には当時も今も切り替えや更新の有無を「判別できればいい」くらいの意味づけとなっています。 ちなみに古時計の機械においてその多くは手打ちのようです。 余談ですが、電気製品でもインテリアでも、中を覗く機会があったらケースの内側とかシャーシとか観察してみて下さい。様々な刻印や赤や黒のマジックで数字やレ印が書かれているのを見つけるかも知れません。それらは大概更新や自然切り替えのチェック跡です。 |
最終更新 2021年 8月17日 追記更新 2016年 3月29日 追記更新 2013年12月10日 新規追加 2013年 2月15日 |