素朴な疑問   まあ、専門家に聞けば分かるんだけどね・・・・
 
000301  5.どうして無いの?カタカナ英和辞典
000215  4.歌は詩が命?
000201  3.ロケットスタート 
000101  2.コーヒーカップはなぜ左向き?
991220  1.みそ汁はどうして右側に置く?
 
000301  5.どうして無いの?カタカナ英和辞典
と言っても存在を知らないのは私だけかも。

特定の専門用語や個々の業界用語を集めた用語集や辞典は色々あるだろう。
しかし、ここで言うカタカナ言葉とはそういうジャンルに関係なく、雑誌や新聞などの印刷物に氾濫し何となく使ってるあのカタカナ英語を指すことにする。

パソコンやインターネット関連なら、ウェブ、プロバイダー、カスタマイズ、フォルダ、ディレクトリ、パスワード、ダウンロード、ブラウザなどなど。
まあしかし、これらは取り扱う上で必須の用語でもあるから、先の専門用語集など説明したものも少なくない。
やってるうちにそのうち分かる言葉でもある。
おそらく他のジャンルでもそれなりの用語集があろうことは想像に難くない。

では何が問題なのか?
それはたとえばイニシアティブ、アナリスト、ベンチャー・キャピタル、アーキテクチャ、イノベーション、ソリューションなどなど。
別に専門用語という訳でもなく、もっと一般的に使用されてる言葉である。
前述のように新聞・雑誌でよく出会ってるはずだし、大概意味も分かってはいるつもり。
が、果たして第三者にあらためて明確に分かるよう説明してみろ、と言われハイハイと即座に回答出来る人はどれほどいるだろうか?。
せめてスペルでもカッコ書きしといてくれれば後から調べることも出来るのだが、そんなのはかなり稀と思っていい。
意味はちょっと(-_-;)だけど聞いたことはある、ということで分かったふりして読み飛ばしてることも多いんじゃないの?
だいたい横文字に弱い日本人はカタカナ語が何となくカッコ良く見えるというだけで、実際書いた本人だって正確に言葉を理解してるかどうか、かなり怪しい場合があるように思えてならない。

そこでカタカナ英和辞典の登場である。
外国語の発音を無理矢理にでも日本語表記する訳だから、実際の場面ではたとえば「ヴァ」と「バ」、「ティ」と「チ」、「トゥー」と「ツゥー」などなど表現上の問題も多いだろう。
そんな場合は言い表しそうな表現すべてを同義語や間連語みたいに、リンクするように編集されてなければならない。
その意味では検索の素早いCD−ROMが適していそうである。
もちろん、学校で習うような英単語もすべて網羅していて、原語のスペルを知らなくてもカタカナ索引のまま意味を引けること。
CD−ROMならついでに翻訳ソフトにもなってたりして、「ジス・イズ・ア・ペン」なんて文もカタカナ入力でパッと意味が出てきたりすると良い。

どこぞの書籍メーカーさん、何とかして。売れまっせー。
誰もが明確に理解してそれらの記事を読んでる訳じゃないんだからさあ。
もちろん、「英和」とはしたがカタカナ語は英語ばかりじゃないので、当然他の言語や和製英語も含めていい。

あっ!?そうそう、私への謝礼は売り上げの1%もあれば十分ですよ・・・・ハイ!
 
000215  4.歌は詩が命?
いいえ、曲(音)が命です。
だって、そんなに詩が気に入ったのなら一過性の歌を聴くより、じっくり時間をかけて詩集(歌詞カード)を見れば(読めば)いいじゃん。

多くの人は好きだという歌や歌手の理由を聞かれた時、その詩か声を上げるもの。
特に最近は歌手自身が作詞をも担当することが多々みられ、それらの場合ほとんど例外なく詩を第一に上げる人(特に女性は)が多い。
詩は歌手の等身大のセンスや思いを表したものと理解され、同年代ならばその言葉に賛同や共感、メッセージを感じるということなのだろう。

対して私は圧倒的に曲優位主義であり、続いて声となる。
つまり、いずれにしても聴覚を刺激する「音」に対しての反応である。
歌に占める詩の比重は極端に低く、歌詞カードはまったくと言っていいほど見ない。(日本の歌なら何度か聴けば分かるし)
だからメロディは知ってるのに歌の名を知らない、ということもよくあることなのだ。
当然のように歌われる詩の言語にも無関係である。
英語でもフランス語でもドイツ語でも、詩の意味は全然分からなくても音(曲・声・ハーモニーなど)があれば興味の対象として成立する。

メロディ、ハーモニー、リズムがあって、その音に乗って詩が歌われ、それを聴いて初めて気に入るかどうか判断されるのが歌であろう。
ここで気に入った詩による歌があって、その詩を違う曲に乗せて(たとえば民謡やヘビメタに乗せて)歌ったとする。
それでもあなたは同じようにその歌(詩+曲)をいつも好きになれるだろうか?
(民謡やヘビメタを決して見下している訳ではない。↑誤解のないように願いたい。)
詩を先に知って、その詩が気に入って歌われる曲も好きになる、ということが一般的にどれほどあるだろうか?
詩が好きだという感覚は意味を理解した後、またはその言葉としてのリズムから発生するものである。
ところが最近の歌の多くは「曲先」であり、詩は後からそのメロディに乗るよう本来の自由を奪われた形で書かれてはいないだろうか?(それもテクニックではあるのだが)
もっと別の表現がしたかったのに音符数が足りず(または間延びしちゃって)、やむを得ず妥協してはいないだろうか?

まったく無名の、あるいは新人歌手の歌を一聴して好きになることはよくある。
こんな時多くはその「曲」か「声」に反応してるはずである。
そもそも一聴しただけで詩の意味まで理解出来るとは思えない。
曲にしろ声にしろ、いずれも音に対して反応した訳であり、それこそまさに「音楽」ではないか。
詩は後から内容を理解するため、結果としてその音楽を気に入る補助となっているにすぎない。
詩が好きだからこの歌手この歌が好きだなどと、それは後からの説明にすぎない。

だって、そんなに詩が気に入ったのなら歌を聴くより詩集を見ればいいじゃん。
 
000201  3.ロケットスタート
現代の陸上界は、なぜあのロケットスタートを取り入れないのだろう?

1988年、ソウル五輪陸上100m。
先行逃げ切り型のベン・ジョンソンと追い込み型のライバル、カール・ルイスの対決である。
ジョンソンは見事なスタートを切った。
40〜50m走った時に両者の差は2〜3mほどはあったろう。
ゴールラインまでルイスの追撃に怯むことなく駆け抜けたその勇姿は、9秒79の世界新記録と共にまさに世界を震るわせたのであった。

しかし、ほどなくしてその勇姿は違う意味でマスコミのフラッシュをあびてしまうことになる。
但し、ここでかのドーピング事件を云々するつもりはない。
私が注目したのは彼のスタートスタイルである。

ビデオなど見てもらうとよく分かるのだが、彼はスタートの号砲直後1m走る?かどうかで、すでに頭一つ他の選手を圧倒しているのである。
もちろん薬による筋力や瞬発力の違いもあったかもしれない。
が、当時私が注目したのはスターティング・ブロックのセット位置であった。
短距離でのクラウチング・スタート(←和製英語らしい)は子供でもお馴染みだろう。
普通それは左右の足を30cmほど前後するようセットし、号砲と同時にブロックを蹴り出し第一歩を踏み出すことになる。
対してジョンソンの当時のスタイルは両足を少しずらすだけで、ほとんど横一(おそらく15cm前後か?)とも思えるほど揃えてセットしているのである。
たとえて言えば水泳のスタートに近い(最近の水泳のスタートは逆に足を前後にずらす選手の方が多いが)。

階段の途中で左右の足を一段ずらしてジャンプしてみよう。(左足が床面、右足は階段の1段目というように・・・踏み外して怪我などしないよう十分気をつけて!!)
さて、平らな床面で両足そろえてジャンプした場合との違いはどうだろうか?
第一歩の飛び出しの差はこの差とは思えないだろうか?

シドニーも近い。頭一つである。まだ間に合う?
100mでも号砲直後とあれば0.05〜0.1秒くらいの差となる。

現代の陸上界は、なぜあのロケットスタートを取り入れないのだろう?
2003年9月1日追記
陸上200mの末續選手やりましたねー。
陸上短距離種目でまさか日本からメダリストが誕生するとは、時代も変わったもんだと正直びっくり。
末續選手はベン・ジョンソンに近い両足をほぼ揃えるスタートで、上述のように疑問に思ってた分個人的にもちょっとうれしい。
もっとも決勝ではその肝心のスタートで一瞬出遅れたようだったが、それでもこの結果だからホントに快挙と言って良い。
オリンピックや世界選手権などこの種の大会を通じて長らく黒人スプリンターに独占されてきた短距離の世界を、東洋人としても初めてこじ開けたらしい。
以前、白人選手では旧ソ連の何とかという100mのスプリンターがいたが、記憶に残る中では久々の黒人以外のメダリストだろうか?
こうなると来年のアテネオリンピックにも期待しちゃうけど、果たしてマスコミや世間の目がスターに祭り上げちゃった後どうなるかだよね。
特にしばらくはアホな(芸能)マスコミやミーハー(死語?)女の追っかけに潰されなきゃ良いと思うけど、いずれにしろアテネで真価が問われる?
 
000101  2.コーヒーカップはなぜ左向き?
前回と同じような疑問。
喫茶店などで出されるコーヒーは、なぜカップの取っ手(正確な呼び名を知らないのでとりあえずこう呼ぶ)を左にして置かれるの?
右手で持つにはわざわざ半周させないといけないではないか。
これはもはや無駄な儀式である。

まず、コーヒーを用意する側の人がカップを右手で置くと取っ手は当然向かって右側になる。
それをそのままテーブル上に置けば出された側では反対側から見ることになるので、これまた当然のように取っ手は左になってしまうだろう。
こんな単純な理由か?
いやいや、わざわざ左向きに位置を整えて出される場合がほとんどだから、そんな理由ではあるまい。(実際は単純に教えられた通りに出してる、というのがほとんどだと思うが)

多くの人が砂糖やミルクを入れるとすれば、カップを持つ前にまずスプーンを持つことになる。
なるほど、最初に持つスプーンを右側に置くために取っ手が邪魔だから向きを逆にしてるのか?
いやいやいや、これも取っ手が必ず左なのに対して、スプーンは必ずしも右とは限らないなあ。
むしろ横向きにカップの手前又は後ろに置かれることの方が多いし、その向きと比べるとこちらの置き方は明らかに一定してない。

???・・・・わからんなあ。
紅茶はどうだったっけ?
気の利いたホールならビアジョッキは大概右向きに出さなかったっけ?

やはり出す側の礼として相手は客であり、その客が飲みやすいよう取っ手を右側に配置して出すべきではないか?
自分の都合よりも相手側の都合に思いを尽くす。
それが客への思いやりでありマナーというものではないのか?
 
991220  1.みそ汁はどうして右側に置く?
左利きの方々には申し訳ないが、やっぱり世の大多数は右利きの人。
お椀は左手に、箸は右手に持つ。
左手は普通ご飯茶碗を持って胸の前で静止状態、でも右手はテーブル上のあっちこっち飛び回ることになる。
右手に汁物があったらあぶねえじゃねえか!邪魔なんだよな!!湯気も手にかかるしさあ!!!

想像するに、そんな右手にとって不利な状況でも何ら意識させることなく自然に食事をすます、それが日本流のマナーであり作法ということなのだろうな。
そもそもみそ汁が右側にあるからといって、それでおぼつかなくなってしまうような食べ方では行儀が悪いですよってこと。

いやいやいや、それでも解せないぞ。
マナーを教えるような練習時に右に置くなら納得しよう。
しかし、一般に公の席でいただこうという食事なら、そして食べてもらうことを前提に出す食事なら、相手が食事をとりやすいように配膳するのが出す側の当然のマナーではないか。
みそ汁のような汁物は左手でお椀を持ち上げるのだから、ご飯と共に縦並べで左に配する(ご飯が手前、みそ汁が向こう側)のが当たり前である。
何も意地悪く右側に配するなんぞ、相手の行儀作法を確かめるような恥ずべき行為ではないか。

ここに断固としてみそ汁左置きを主張する。
 
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