開成社?(播陽時計前身)/10インチ金本四つ丸掛け時計 (参考) | ||||||||||||||||||||||||||
参考ページ 播陽時計/9インチ金本四つ丸掛け時計 | ||||||||||||||||||||||||||
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金元社、中條勇次郎時計、蛎殻町時計などと並ぶ、明治20年以前の国産西洋時計黎明期の時計と思われます。機械や文字板紛失の完全ジャンクで筐体のみですが、ネット初出と思われる振り子室ラベルは注目に値するのではないでしょうか? 明治5年12月3日を明治6年1月1日とする太陰暦から太陽暦(いわゆる旧暦から新暦)への変更に伴い、輸入に頼っていた西洋時計の国産化が国内各地の名士や技術者の間で起こります。関西では旧姫路藩の鉄砲・刀鍛冶職人であった篠原右五郎、旧士族の上月宗七、児島源太郎らにより結社の動きが起こり、篠原・上月両者の名から「原月社」として明治8年頃国産時計製造への挑戦が始まりました。 播陽時計製造会社(ばんようとけい 明治21〜23年)はその前身に上述原月社(明治8年頃〜)、開成社(明治14/5年頃〜)、白鷺時計製造会社(明治20〜21年)と歴史を刻んでおり、白鷺時計頃から販売が始まったとの記録はあるものの現物は公には確認されていないようです。今回、更に遡った「開成社」ではないかと思われる時計を紹介致しますが、いずれにしても播陽時計の前身であろう事は間違いないところでしょう。 現在、播陽時計でさえわずか2年足らずと残存数が極めて少なく、収集家の間では幻の時計の一つに数えられるほどです。 手前味噌ですがこの時計筐体はちょっとした発見になるかも知れません。 ほとんど残骸となっている状態ですのであくまで参考資料として「?」を付けての紹介です。薄くなってるとは言え振り子室ラベルはほぼ残っており、筐体もそれなりながら播陽時計とも異なる数々の特徴あることから下記に詳細を報告致します。 |
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入手時状態 金彩部分は全体が後塗り塗装されており残念ですが所々島状に剥がれている部分を見ると、その下には光沢あるきれいな下地やオリジナル金彩らしい一部が見えます。紛失部品多数ですが筐体そのものの傷みは少なく、時代からすれば良く残っていた方でしょう。 |
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それではと、後塗り塗料が少し剥がれ浮き気味となっている部分にエアー吹きして丁寧に剥いでみると、黒光りした下地(黒漆?)にオリジナル金彩の化粧枠であることが分かりました。やはり元々金本四つで間違いありません。 | ||||||||||||||||||||||||||
元々割れてセロテープで留められていた文字板ガラスは厚み2〜2.4mmと場所によって異なり、厚めの強ゆらゆらガラスでオリジナルと思われ残念です。 | ||||||||||||||||||||||||||
筐体内の機械取付部分には多くのネジ穴が残っており、何度も付け直されあるいは機械交換されて来た様子がうかがえます。上下に薄く機械台座となるゲタ(木片)跡(注1)が残ってることから、オリジナル機械は初期のアメリカ時計(→ニューヘブン時計参照)のような大型機械を台座留めで付けていたと思われます。 右に筆者には判読できない文字(注2)、左上にこちらも判読不明な記号(注3)のような文字が薄く筆書きされています。 黒塗りの木枠4個所にはオリジナルより小さな文字板取り付け用に、後付けで木片が接着され改造されていました。 |
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その黒木枠は文字板取り付け用に内径側が1〜1.5mmほどの深さで削られており、その中に本来のオリジナル文字板が取り付けられます。播陽時計の文字板は上下と×の6本留めまたは×の4本留めのようですが、この時計の木枠では上下左右の十字に4本留めとなっています。段付き直径は実測27.8cm、文字板そのものは直径約27.5cm前後で、後述の飾り枠が扉側に付くことから一枚板かと思われます。 この一段凹ました文字板取付は播陽時計でも例がありますが、真鍮製飾り枠は文字板ベースと半田付けにより一体化されこの時計とは異なる仕様となっています。また筆者手持ちの播陽時計1台とネット上で確認できる数台では、やはり手間がかかる分この段付きは少数派のようで初期仕様かと思われます。 |
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ガラス扉は文字板側・振り子室側とも二山の化粧枠4枚に9mm厚の内枠4枚を貼り付け、共にガラス側には9mmの段差が付けられています。文字板側はその中にガラスと後述の飾り枠を納め小釘で十字に4個所留め、振り子室側はおそらく後年でも良く見る薄木を嵌め込み釘打ち5個所留めくらいかと思います。共にパテ盛りしたような痕跡はありません。 手持ちの播陽時計も振り子室側は薄木を嵌め込んでの釘打ちですが、文字板側は段差が7mmほどと少し浅くやや大きな面取りもありパテ盛り留めであったと思われます。播陽時計では前述のように飾り枠が文字板枠と一体化されたプレス物で筐体側に付くため、9mmまで深くする必要が無かったのでしょう。 |
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前述のようにRの付いた文字板飾り枠がガラスと一緒に扉側に留められ、厚みは実測0.7〜1mm弱ありごつい感じです。実際手で捻っても簡単に曲がるような事はありません。長手方向にロール目がしっかり残っており、曲げた後丁寧にろう付けして輪としています。 この種の加工は後年物ガラス枠の多くがそうであるようにプレス加工(絞り加工)で作れば簡単なのですが、それには大きな機械動力が必要となります。当時、播陽時計でさえ人力に頼っていた時代ですからそれはできない相談だったのでしょう。そんな時代にこの飾り枠は非常に良い仕上りで、筆者も技術者の端くれとしてスゲーな!と高度な職人技を感じます。 技術話になりますが、こういう一見何の変哲もないような物が実は熟練の技を要するものです。現在これをやろうとしても指定寸法で曲げ初めと曲げ終わりをピタッと合わせることはけっこう難しいことです。およそ1mm厚13×800mmの長尺薄板を機械にセットし、R付きのテーパーを付けつつ円形に曲げようという話です。そりゃ、現在の機械なら一度合わせれば材料ロットが変わらない限りいくつでも出来るって所はあります。 しかしコンピュータも無けりゃNCでもない当時の機械加工です。材質だって現在ほど高度に設計されてはいないでしょう。それはほとんど職人の勘所な作業だったと思われます。それでもどれほどの歩留まりだったか筆者のような本業(設計)をやってる人間には大いに気になります。 ずれちゃった物をいい加減にろう付けや溶接して繋げると経年変化で切れてしまったりヨレが出たりします。水平面に置いた時ヨレて浮きが出ちゃうんですね。実用面では多少のヨレくらい取り付け時に矯正され問題となるほどではないとしても、この飾り枠は定盤上においてもピタッと浮き無く水平に合っていて見事です。 マニュアル機械で歩留まり良くこれができる人、今日本に何人いるでしょうか? ひょっとしてろう付け部分の跡を見ると、繋いだ後も矯正してたのかも知れませんね。だとしてもやはりすごい技術です! |
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材料取りは後年のシャーリングカットでもプレスでもなく、切断面にはギザギザののこぎり跡(手引きでは無いでしょうが)が斜めにはっきり分かります。写真ではよく分かりませんが材料取り時のバリが切り口側(面の延長側)に伸びてる事から、裁断後の曲げ加工(ベンダー加工)という作業工程もよく分かります。 尚、切断面内部も金色である事から素材は真鍮に間違いなさそうですが、R付きとはいえその丈夫さから亜鉛多めの固めグレードを使用していると思われます。 |
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筐体円形曲げは日本伝統の曲げわっぱ技術の延長のようです。厚みは機械室側で8mm強、振り子室側で7mm弱しかないものの非常にしっかりしています。筐体はその円形枠に前面は上下共内径に合わせた黒塗り枠を嵌め込み、背面は上下共に段差を付けて落とし込む形で作られています。表側より背面側の方が側板が共に薄く見えるので段差のあることが分かりますよね。 後年良く見る曲げの内側に多数の切り込みを入れて曲面を作る物とは外観側への曲げ跡も出ず趣が異なります。 |
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振り子室側円形枠はその内側にたくさんの銜え跡らしき点々の傷跡が全周に渡ってありました。機械室側も同様ですので共に曲げ加工時に開かないよう、また癖付けのために固定する治具跡なのでしょう。写真のような縮み側に出る縞模様もこの種の曲げではお馴染みですよね。 | ||||||||||||||||||||||||||
背板には上部に少なくても3枚の修理歴または保険証が貼られており、いずれも少しずつ残っていました。そのうち一番新しそうな上側のラベルは下側1/3くらい残っていましたが、「??時計店」とあるのみで具体的な情報はありません。一応修理時のラベルらしいことが分かるくらいでしょうか。 背面右側に「クロ」と読める文字、左側に3文字らしいけど読めない書き込みが共に筆字で書いてあります。 掛け金は大きく、長方形の上角をRに取った略六角形の独特なものです。約0.8mm厚49×27.7mmある縦2本留めで、φ8.3の掛け穴が開いています。小さめな穴には違いないけど、金具自身が大きいせいかやけに小さく見えますね。 |
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無名つば無し凸菊花模様のボン台を外してみると、これもたくさんのネジ留め穴が出てきてどうやら交換されてる可能性が高いようです。 | ||||||||||||||||||||||||||
振り子室ラベル さて最大の関心事である振り子室ラベルですが、調べた範囲ではネット上にも過去に例のないラベルと思われ、写真や実物を見ながら原文通り間違いやスペースを含め忠実に記入すると下記の通りとなります。
注目は4行目の「 KOZUKI SAE 」と8行目の「 KAIKAIS YA.」でしょう。 ※1 播陽時計の振り子室ラベルでは「 DAINIHON TEIKOKU 」と正しく表記されていますが、こちらは誤記されています。 ※2 「上月さえ」と読めるおそらく人物が、播陽時計そもそもの原点である原月社の「上月宗七」とどういう関係なのでしょう? ※3 明治14/5年頃より原月社の後を次いだ「開成社」がここで表記されている「KAIKAIS YA.」の事を指しているのでしょうか? 「播陽」の名やロゴはもちろん、「白鷺」の名さえ全く無い事から筆者は上述の通り、「 KAIKAIS YA. 」は「 KAISAISYA (これも正しくはKAISEISYA)」の誤記と考えました。 そもそも話しで恐縮ですが、開成社の読みは「かいせいしゃ」でいいのでしょうか? この種の社名・人名はたびたび出てくるけど、ふりがな振って読みまで紹介したものはほとんど見たことありません。筆者が子供の頃初代首相を「いとうひろぶみ」と教わりましたが、今はその道の某識者が「いとうはくぶん」と呼んでるのを聞いたことがあります。この種の執筆者だってホントは知らないんじゃないか、あるいは断言できないんじゃないかとさえ疑ってしまいます。ですから当然筆者も断言できません。 クドいですがホントは「かいかいしゃ」、それとも「かいさいしゃ」? 振り子室ラベルの S と Y の間が空いてるのだって誤記では無く実は別の読みがあったり、ひょっとして「 I 」の字を消した跡かも知れません。「しゃ(S YA)」=「しや(SIYA)」と言うことですね。この種の「日本語⇒ローマ字」表現では時計ラベルやロゴに限らず、特に明治期には良くある事です。「会社」が「KUWAISHA」とかね。 かの金元社だって、創業者「金子元助」の名からすれば「かねげんしゃ」それとも「かねがんしゃ」、はたまた「きんげんしゃ」、「きんがんしゃ」、「かねもとしゃ」、「きんもとしゃ」もあるか? 同じく時盛舎も今は知ってるから読めるけど、「ときもりしゃ」とか読んだって不思議じゃないですよね。正しく「じせいしゃ」と読んでる人どれくらいいるのだろう? まあ、人名と地名由来以外の○○舎(社)名は音読みが多いとは言えそうかな? |
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繰り返しになりますが、明治20年から21年にかけて白鷺時計が開成社を引き継ぎ時計を製造販売したと文献に伝えられているようです。しかし現物は2017年現在発見されておらず、どのような時計であったのかも定かでありません。 開成社までは時計が完成したかどうかも確証が無く、白鷺時計に至っても上述の通り現物は確認できていないところへ、突然「上月」の名や、「開成社」を臭わせる振り子室ラベルの時計が出てきた訳ですね。 っと言うことで、もっともらしく書いてはいますが半ば想像と妄想を含め筆者はここまでが精一杯。 関西の古時計マニアのみなさん、識者のみなさん、まだまだ眠ってる時計がありそうですよ! 追情報や見解などお任せします。 次回は比較対象となった手持ち「播陽時計/9インチ金本四つ丸掛け時計」をご紹介予定です。 |
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最終更新 2019年10月25日 追記更新 2017年12月 1日 新規追加 2017年 3月 7日 |
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