メスナー 9801 No.3
天野 : 「最近ねえ、ほぼ20年ぶりくらいにメスナーのことをある雑誌で見てね。なんか妙な感激を味わっちゃったりして。」
記者 : 「何ですか、それ?」
天野 : 「ラインホルト・メスナー。登山家だよ。知らねえだろうなあ、やっぱり。」
記者 : 「全然」
天野 : 「20年くらい前に絶頂を極めた登山家でね、まだまだ子供だった俺の目からみても「なんちゅうやっちゃ」っていう感じだった。」
記者 : 「へえー」
天野 : 「とにかく当時の先鋭的な登山家の中でも最先端にいた人で、それまでの登山界の常識を次々と打ち破っては成果を挙げていったんだよね。まあそのやることが派手だったもんだから当然のことのように敵も多かったようで、時には批判の矢面にたったようなこともあったと記憶してるよ。俺にとってもある意味あこがれの存在だったわけだけど、なんせ当時の一般的な考えからするとまったく無茶と思えることを繰り返していたもんで。その後俺の20才代は一時的に登山から遠ざかっちゃったから知らなかったんだけど、もう絶対死んでると思ってたし、当時の登山仲間もみんな近いうちに死ぬぞって言ってたもんなあ。」
記者 : 「それが生きてた?」
天野 : 「そう、生きてた。びっくりしたよ。へえー、あんなことしててもまだ死なずに生きてたんだあって。」
記者 : 「初めて聞くんで全然わからないんですけど、どんなことをしてたんですか?」
天野 : 「一番有名なのは・・・・やっぱりエベレストに無酸素登頂したことかな。」
記者 : 「無酸素ねえ?」
天野 : 「エベレスト(チョモランマ)は9000m近い世界一の高峰だから、山頂付近では当時も今も酸素ボンベを背負って登るのが普通。それを無酸素で初めて登っちゃったわけ。それも単独だった(2人パーティーだったっけ?)と思うんだけど、わずか1週間くらいで征服しちゃったんじゃないかなー。この辺はちょっと記憶があいまいだけど・・・・。
ヒマラヤ登山のような困難な登山は極地法といって、10人前後の隊員と多数のシェルパやポーターの力を借りて荷揚げをし、普通標高5000m付近に大きなベースキャンプを張るんだよね。そこから隊員とシェルパが入れ替わり立ち替わり何日も何週間もかけてルートを延ばし、補給用と仮住まいを兼ねたキャンプを次々と作って前進していくわけ。そしてようやく最後になって、隊員やシェルパのうちの何人かが登頂するんだよな。
こんな登山法だから1ヶ月や2ヶ月の時間は当たり前。時には億単位の金をかけて大遠征をするわけさ。これもまた当然のごとく大変な量のゴミは出るし、ほとんどはその辺に捨てっぱなしで来ちゃう。使いきった酸素ボンベを前進キャンプの周りに置きっぱなしでくるなんて話はしょっちゅう。当時から早くもヒマラヤでは環境汚染が大問題になってたくらい。
それをパッと登ってさっさと降りて来ちゃったんだからもう大騒ぎ。まして無酸素のおまけ付きとあればなおさらで。
当時は山頂で撮った証拠写真がおかしいとか、ほんとは山頂まで行ってないんじゃないかとか、小さな携帯ボンベを使っていたんじゃないかとマスコミにずいぶん書き立てられたりしたよね。なかには酸素不足による重い脳傷害が残るんじゃないかって心配する記事もあったなあ。そうやって誰もが疑いをかけるほど革命的なことを、一見いとも簡単にやっちゃったんだから。
神聖であるべきヒマラヤ登山に一般登山を持ち込んじゃった、てね。」
記者 : 「昔の登山界ではそんなことがあったんだあ。」
天野 : 「その後もメスナーが前人未踏の成果を次々と挙げていったのはさっき言った通り。確か超人って呼ばれていた当時だけど、そんなだからいつか必ず事故にあうぞってみんな思ってたわけよ。」
記者 : 「そういう革新的な人達によって、いわゆるスタイルってやつは変わっていくんでしょうねえ。」
天野 : 「わかってきたじゃねえか。」
記者 : 「少し」
天野 : 「「革新的な人達によってのみ」って言った方が正確かもしれないな。」
記者 : 「ええ」